日本航空123便はなぜ墜落したのか?日本航空23便墜落事故を解説
- 2023.08.07
- 歴史
戦後最大のタブーとも呼ばれている日本航空123便墜落事故。
航空事故として過去最大の事故。
30年が経った今でもこの事故については忘れてはならないでしょう。
ではなぜこんな事故が起きてしまったのか?
今回は日本航空123便墜落事故について解説します。
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1985年8月12日、羽田から伊丹をフライトする日本航空123便に悲劇が起こります
通常であれば45~50分のフライト。
ですがこの日だけは違いました。
日本航空123は途中で航路を大きく離れ群馬県の高天原山に墜落してしまいます。
この日本航空123便墜落事故は飛行機事故としては世界最悪。
乗員乗客520名の犠牲者を出してしまうことになってしまいました。
日本航空123便最後のフライト
お盆直前の1985年8月12日。
日本航空123便は18時12分に大阪の伊丹空港に向けて羽田空港を飛び立ちました。
123便にはボーイング747SR-100を使用。
123便には乗客509人と乗員15人の計524人が乗っていました。
123便は18時24分に伊豆半島の高度7300mを飛行。
その時機内に爆発音が鳴り響きます。
トイレの方から白いモヤが一瞬立ち込め酸素マスクが下りてきます。
異変を察知した機長は爆発音があった7秒後に緊急救難信号「スコーク7700」を発信。
爆発音が何かを確認する前に機長は緊急事態が起きていたことを理解していたのです。
その報告を受けて2機のファントム機がスクランブル発信。
18時25分「油圧全部ダメ」。
この時機体の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊されていました。
補助動力装置も喪失し油圧操縦システムが損傷。
損傷個所から操縦システムに必要な作動油が全て流出してしまいます。
そのため油圧を使用したエレベーターや補助翼の操舵が不能となってしまったのです。
4機のエンジン出力を調整しながら操縦します。
機長は羽田空港に引き返すことを要求。
羽田空港は緊急着陸を迎え入れる準備に入ります。
18時31分、東京管制局からの降下が可能かの問いに対し123便は降下中と回答。
東京管制局は羽田空港より近く旋回の必要も最低限で済む名古屋空港への緊急着陸を提案します。
ですが123便は羽田に戻ることを希望。
これは市街地の中心である名古屋空港への着陸はリスクが高いと判断したためであると考えられています。
18時45分、横田基地が123便の支援に乗り出します。
横田基地は13回もスタンバイが完了していることを発信。
ですが123便からは応答がなかったのです。
18時46分に機長が「これはだめかもわからんね」と発言。
123便は山岳地帯上空へと迷走していきます。
右、左との方向転換が繰り返し指示。
この時123便は高度1800m前後をさまよいながら飛行を続けます。
18時47分、東京管制局はレーダー誘導を行うと告げ真東に進むように指示。
「操縦可能か」と尋ねると「操縦不能」と応答します。
この時の123便の高度は3000m。
機体の制御は依然として困難だったため右旋回して西へと向かい始めます。
123便は羽田空港とは行方向に向かうこととなり眼前には奥多摩の山々。
機長は「山にぶつかるぞ」と注意。
副操縦士はエンジン出力だけでかろうじて機体をコントロールしていました。
18時50分、低速度でも揚力を生み出せるフラップを展開。
18時53分、機体が安定し始めます。
東京管制局は羽田空港だけでなく横田基地も受け入れ態勢が整っていることを告げます。
18時55分、フラップを展開したため123便は機首上げ傾向を取り始めます。
そして速度が急激に低下。
さらに急降下を始めます。
機長は「フラップアップ、フラップアップ」と叫び速度を回復するためにエンジンを最大出力にします。
18時56分、クルーの必死の努力も空しく123便は急降下を続けます。
コックピットには対地接近警報装置(GPWS)が鳴り響いていました。
高度1600mへと急降下。
機長の「もうだめだ」との叫び声。
右主翼と機体後部が尾根の樹木と接触し第4エンジンが脱落。
機体は大きく機首を下げ右に傾き始めます。
機体は傾いたまま右主翼の先端が稜線に激突。
衝撃で右主翼の先端とわずかに残る垂直尾翼と水平尾翼、第1、2、3エンジンが脱落。
動力と尾翼を失った機体は高天原山の群馬県側北東の斜面にある尾根にほぼ裏返しの状態で衝突し墜落しました。
この事故により乗員乗客520人が犠牲となってしまいます。
生存者はわずか4人の女性だけとなりました。
1987年にこの事故の調査報告書が公開されます。
日本航空123便の墜落原因
日本航空123便の機体JA8119は事故が起きる7年前の1978年に伊丹空港でしりもち事故を起こしていました。
伊丹空港に着陸する際にパイロットエラーによって機体尾部を滑走路面に接触させてしまいます。
この事故により後部圧力隔壁に損傷が発生。
アメリカのボーイング社が整備員を派遣し修理を行います。
圧力隔壁とは機体中央と機体尾部を隔てる壁のこと。
負荷に耐えられるよう高い強度が要求されます。
修理は1ヶ月ほどで完了。
飛行試験で問題が見つからなかったため修理完了となりました。
ですが調査の結果、この時の修理が不適切だったことが判明します。
この誤った修理により後部圧力隔壁の強度は70%まで低下。
金属疲労が生じやすい状況になっていたのです。
この修理から7年の間にJA8119は12000回以上も飛行します。
飛行機の航行によって後部圧力隔壁の金属疲労は徐々に進行していくのです。
さらに修理個所は密封材で覆われていたため整備で見つけるのも困難でした。
そして1985年8月12日。
123便のフライトでついて限界を迎えることになります。
負荷に耐えられなくなった留め具が次々と破断。
圧力隔壁が破壊され機体尾部に空気が流入。
さらに機体尾部が破壊され方向舵も脱落してしまいました。
つまり123便は方向舵のほとんどを失った状態で飛行していたのです。
方向舵には全油圧系統の配管がありました。
方向舵の喪失により配管が断裂。
そこから作動油が全て漏れ出してしまったのです。
つまりボーイングの設計では方向舵の喪失までは想定されていなかったということ。
今回のような垂直尾翼に大きなダメージを負った場合は操縦に必要不可欠な油圧系統にも致命的なダメージが及ぶことが判明。
123便の事故の原因として不適切な修理と事前の想定が甘く穴があったことが主な原因とされました。
123便の事故を受けて多くの安全勧告が出されることになります。
油圧系統の設計を変更し油圧系統をより分散。
後部圧力隔壁も強度の高い改良型が開発。
より安全性の高いものへと改良されることになりました。
今回は事故報告書の内容に基づいて事故原因を解説しました。
ですがこの事故には多くの説が存在しています。
さらに123便が墜落後にも不審な動きがあったことと言われています。
その内容については『日本航空123便墜落事故の謎』の記事をご覧ください。
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