日本航空123便墜落事故の謎に迫る
- 2023.08.10
- 歴史
1985年8月12日18時56分に日本航空123便が墜落しました。
この事故には不審な点が数多く存在しており事故原因についても多くの疑問点が残っています。
そして何より日本航空123便墜落事故から日本の体制が大きく変わったとも言えます。
国家を揺るがす大事件にも関わらず肝心なことは何もわかっていない。
これが日本航空123便墜落事故です。
日本航空123便墜落事故については『日本航空123便墜落事故』の記事をご覧ください。
今回は日本航空123便墜落事故の謎について紹介します。
今回の内容は動画でも解説しています。 他の内容について考察している動画を配信しているのでぜひチャンネル登録して他の動画もご覧ください。 チャンネルのおすすめ動画は『未来Laboおすすめの動画10選』でぜひご確認ください。日本航空123便墜落事故の謎
墜落位置を把握していたアメリカ軍
沖縄嘉手納基地から横田基地に戻っている最中だったアメリカ軍C-130輸送機。
横田基地からの探索命令を受けて墜落後20分に墜落現場周辺の捜索に当たります。
その結果、墜落から30分後に墜落現場を特定。
横田基地に墜落地点を知らせました。
この報告を受けて横田基地は救難チームを乗せたヘリを現場に向かわせます。
21時5分に救援ヘリは現場に到着。
ですが21時6分に横田基地はC-130機と救援ヘリに帰還命令を出します。
救援ヘリは救助活動継続を申し出るも「日本の救援隊が向かっている」という理由で帰還を命じられたのです。
遅れた救助活動
日本機が事故現場上空に到着したのが21時22分。
ですが自衛隊が救助活動を始めたのは13日8時30分でした。
墜落からすでに13時間も経過していました。
時間がかかった原因はNHKが墜落位置の誤情報が流されていたためとされています。
ですが地元住民や消防団は早々に墜落現場を特定し情報を提供。
救助にあたろうとしていたのです。
それにも関わらず自衛隊は一向に救助を始めない自衛隊。
聞こえていた生存者の声はだんだんと小さくなっていくのでした。
目撃された自衛隊
御巣鷹山を良く知る地元住民がバイクで徒歩で夜に現場に到着しました。
そこには自衛隊と思しき人が100人以上いたのです。
装備は暗視ゴーグルにアーミーナイフ。
何かの残骸を拾い集めてヘリを使って運び出していたのです。
その地元住民は50人ほどの生存者のうめき声を聞きました。
地元住民はその自衛隊に対して「ここに生きている人がいますよー」と大声で叫びます。
すると「今動かすと危ない。これから来る人たちが手当てをするから手出しはするな」と自衛隊は答えました。
彼らは生存者に目もくれずに残骸を黙々と拾っていたのです。
1時間ほどするとこれまで聞こえていたうめき声も聞こえなくなりました。
燃えた遺体
生存者の証言によると墜落直後には多くの生存者がいました。
検死を行った医師も「もっと早く救助できていればさらに多くの人を助けることができた」と語っています。
墜落の衝撃と爆発炎上のため犠牲者の遺体は激しく損傷していました。
男女の区別もつかないほどに焼け焦げたもの。
身体がバラバラになったもの。
遺体に別の遺体がめり込んでしまったもの。
想像を絶するような凄惨な姿の遺体が数多く収容されました。
生存者や地元住民の証言によると
「現場にはガソリンとタールの匂いが充満していた。」
「遺体は激しく焼け焦げているのに周りの木が燃えていない。」
検死に関わった医師たちの証言によると「一部の遺体は二度焼きされたのではないか。」
まるで墜落で損傷した乗客の体を火炎放射器で念入りに焼き上げたのではないかと思えるほどに。
また事故から1年以内に90人もの自衛隊員が自ら命を絶っています。
目撃された自衛隊は一体何をしていたのでしょうか?
なぜ積極的な救助を行わなかったのか?
目撃された自衛隊はもしかすると別班かもしれません。
別班については『別班』の記事をご覧ください。
増えるボーイングの飛行機
事故調査によるとボーイング社による整備不良が事故の原因とされています。
それにも関わらず日本はボーイングの飛行機ばかりを購入するようになります。
世界ではエアバスが主流となっているのにです。
そもそも圧力隔壁は破壊されたのでしょうか?
破壊されて機内から空気が漏れ出たとしたら荷物や乗客が外に吸い出されてもおかしくありません。
ですが証言によるとそんな状況はなく高度7000mでさえ寒さに凍えるような状況もなかったという。
日本航空123便墜落事故には今でも様々な謎が残されているのです。
日本航空123便墜落事故の夢の話
ここからの話はあくまで私が夢の中で見た話です。
あくまで夢の中の話ということで聞いてください。
多くの日本人は満州は戦前に日本が作った傀儡国家だと思っているでしょう。
それ以上多くのことは語られることはありません。
ですが現在の日本を語る上で外すことができないのが満州。
戦後体制の多くが満州から始まっているのです。
満州は関東陸軍が共産主義国として作った国でした。
そして満州のトップは岸信介。
安倍晋三の祖父です。
岸信介はGHQ追随型の資本主義者だと思っているかもしれませんがそうではありません。
岸は国家社会主義に傾倒。
国体の衣を着けたる共産主義者としてアカの革新官僚と呼ばれていました。
そんな岸の作品が満州。
満州にはソ連型の統制経済を導入したのです。
1945年7月26日のポツダム宣言後に満州にいた関東軍70万人がシベリアの収容所へと連れて行かれます。
これがシベリア抑留。
シベリアでは毎日のように赤化教育が行われます。
そして1947年から1956年に抑留者47万人が日本へと帰国することになります。
そんな人たちを多く受け入れたのが国鉄。
ですが国鉄では下山事件や三鷹事件など様々な過激な事件が起き始めます。
1957年に岸信介が内閣総理大臣に就任。
かつての岸はまぎれもない赤い官僚でした。
そんな赤い官僚たる岸がさっさとGHQサイドに寝返ってしまった。
そしてあろうことか反共の急先鋒に豹変。
つまり満州の同士を裏切ったのです。
さらにソ連を仮想敵国として認定。
そんな岸の姿を見たかつての同士は落胆し絶望します。
1980年から国鉄分割民営化の機運が高まります。
その国鉄分割民営化を指揮したのが中曽根康弘。
中曽根康弘は海軍出身です。
そんな国鉄分割民営化に激怒した満州の同士。
彼らは日本政府を脅しにかかります。
日本政府は戦後構築された基盤が崩壊してしまうのを恐れました。
戦後の日本はアメリカへ戦後賠償をする代わりに高度経済成長を認めらました。
日本国民が稼いだ上澄みを持っていくという算段。
その戦後に確定した基盤を揺るがされてしまう事態はアメリカこそ避けたかった。
そして日本の首相は彼らを一般航空事故に偽装する形で葬り去ることを決めます。
陸軍の暴走を止められるのは海軍だけ。
そして彼らは8月12日に旅経つ飛行機に乗ります。
彼らが脅した被害者もその飛行機に乗りました。
要求者に怪しまれないように。
彼らには自らの命を賭けてまで伝えたい主張がありました。
彼は離陸後すぐに機体最後尾のトイレに入ります。
その胸に爆弾を抱えて。
そして自決した。
つまり事故でも事件でもなく事変だったのです。
この事変はアメリカ企業の修理ミスということにしてもらえた。
ですがこのことで日本政府はアメリカに大きな貸しができてしまいます。
その後は日本が没落の道を辿って行くのはあなたも知っての通り。
日本航空123便事故とは日本の大きな転換点だったのです。
戦後私たちはその行いを反省することなく彼らの存在をなかったことにした。
のんきに偽りの平和を謳歌していました。
彼らは日本に戻ったら歓迎されると思っていた。
みんなから褒め称えられ英雄として扱われると。
でもそうではなかった。
国は彼らのことを邪険に扱った。
ただ昔のままに今でも忠実に任務をこなしているだけなのに。
どうしてこのような仕打ちを受けなければいけないのか。
私たちのことを誰も覚えてくれていないじゃないか。
私たちが味わった苦悩をよそに高度経済成長の中で楽しそうに暮らしている。
私たちは恥をかかされ無念に野垂れ死ねとでも言うのか?
そのようなことは決して容認できない。
こんな国になるとは思ってもみなかった。
よって私たちはあなたたちに宣戦布告する。
日本の根幹が徐々に変わっていった瞬間だったのです。
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