日本最恐の怨霊 時代に翻弄され続けた悲しき物語
- 2022.01.11
- スピリチュアル
こんにちは✨矢島奈月妃です。
日本は古くから怨霊というものを信じてきました。
怨霊とは人々に災いをもたらす恐ろしい霊のこと。
日本には非業の死を遂げ恨みつらみを募らせ怨霊になったものがいます。
しかもその恨みは1000年以上も続いているのです。
今回は日本最恐の怨霊についてご紹介します。
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日本最恐の怨霊は次の通り
菅原道真
平将門
崇徳天皇
それぞれ詳しく説明します。
菅原道真
菅原道真と聞くと学問の神様と思っているかもしれません。
ですが菅原道真は日本三大怨霊にも数えられるほど強力な力を持った怨霊の一人。
菅原道真は845年8月1日に生まれます。
幼少期より詩の才能を見せ5歳で和歌を詠むなど周囲からは神童と称されました。
菅原家は中流の貴族でありながらも宇多天皇と醍醐天皇に信頼され昇進していきます。
そして醍醐天皇が即位する頃には右大臣の地位まで昇りつめるのです。
ですが菅原道真に対する嫉妬や左大臣だった藤原時平などの有力貴族の反発も表面化していきます。
周囲からも「このあたりで引退して余生を楽しんでは?」と諭されもしましたが
菅原道真はこれを聞き入れることはありませんでした。
藤原時平は情に任せた採決を行う感情派。
菅原道真は冷静な判断を行う理論派。
その2人はそもそも反りが合うことはありません。
藤原時平は謀略を企てて無実の罪を菅原道真に着せます。
そして菅原道真は九州の大宰府に左遷。
衣食もままならないほど厳しい生活を強いられながらも身の潔白をひたらす天へと祈りました。
しかしその祈りは天へと届かずに903年2月25日に大宰府で死去。
菅原道真の没後に謀略の首謀者である藤原時平は病床に伏せます。
自身の病気を何とか治すために妙薬や陰陽師の祈祷を試みるも効果は無し。
なので当時都で最も有名であった天台宗の僧侶、浄蔵に加持祈祷させることになります。
後日朝廷に仕えていた浄蔵の父・三善清行が藤原時平のところに見舞いに訪れると
藤原時平の両耳から2匹の龍が現れます。
無実の罪で大宰府に流されて死んだ私は今や天帝の許しを得、怨敵に復讐するため京に舞い戻ってきた。
お前の息子は時平のために加持祈祷をしているがどうせ無駄なことよ
そうして藤原時平は亡くなり醍醐天皇の皇太子の命まで奪います。
菅原道真の崇りはそれだけにとどまりません。
山より突如起こった黒雲は雨を降らせ雷鳴を轟かせ清涼殿に神火を放ちます。
これにより胸や腹部を焼かれて亡くなる者、顔が焼けただれた者など多くの犠牲者が出ました。
さらにこの落雷で醍醐天皇も病に伏すことになるのです。
菅原道真の没後40年後に崇りを鎮めるために北野天満宮を建てます。
そうすることで菅原道真の崇りもおさまっていきました。
そして菅原道真を天神様として信仰する天神信仰が全国へと広まることになります。
災害の記憶が風化するにつれて菅原道真が生前優れた学者であったことから
学問の神として信仰されるようになっていったのです。
平将門
朝廷に戦いを挑み自らを新しい天皇だと名乗ったのが平将門。
そんな平将門を朝廷が黙って見過ごすはずはありません。
朝廷は大勢力を持って平将門が統治していた関東へと攻め込みます。
その戦いで平将門は頭部に矢を受けて絶命。
討ち取った平将門の首は平安京へと運ばれ晒し首となります。
ですが平将門の首は何か月たっても朽ち果てることはなく
目を見開き歯を食いしばった恐ろしい形相だったと言われています。
私の胴体を返せ!
頭をつないでもう一戦してやる。
と言い放ち身体を求めて平将門の首が白い光と共に関東へと飛び立ちました。
力尽き落ちたとされるのが東京の大手町。
平将門の崇りを恐れて首塚を作って丁寧に供養したものが平将門の首塚として残っています。
ですがここから平将門の恐怖を知ることになるのです。
関東大震災後に東京の再開発のために当時の大蔵省が首塚周辺に仮庁舎を建設。
ところが大蔵省では病人が続出し大蔵大臣まで亡くなってしまいました。
そんな事態から「平将門の首塚を荒らしたからだ」という噂が流れ仮庁舎を別の場所へと移転。
ですが平将門の怒りはそれだけではおさまりません。
平将門が討たれた1000年後の昭和15年に大蔵省の庁舎に雷が直撃。
全焼21棟、死者2名、重軽傷者多数という大事件が発生します。
大蔵省は鎮魂祭を催し平将門の霊を鎮めるのです。
ですがそんなことは知らないアメリカのGHQ。
大東亜戦争終了後に東京は焼け野原となっていました。
首塚周辺もがれきの山となり撤去と整地が行われます。
その作業をしていたブルドーザーが突然横転し作業員が亡くなるという事故が起きます。
平将門の崇りの話を聞いたGHQは整備作業を中断することになりました。
そんな恐ろしい力を持っている平将門の力を民衆のために使った人物がいます。
それが徳川家康です。
平将門は妙見菩薩を信仰しておりそのシンボルは北斗七星。
徳川家康は朝廷に対する守護神として平将門の霊的なパワーを利用していたと言われます。
平将門ゆかりの地を北斗七星の形でつなぎ東京の守りとしました。
平将門は恐ろしいイメージがあるかもしれません。
ですが大衆のために戦った英雄としての側面があります。
あくまで平将門を恐れたのは当時腐りに腐りきっていた朝廷側なのです。
平将門を恐ろしいイメージへと仕立て上げたのも朝廷の謀略かもしれませんね。
崇徳天皇
菅原道真や平将門は自ら怨霊となろうとしたわけではありません。
あくまで死後に崇りが噂され怨霊と化したと言えます。
ですが崇徳天皇は生前から怨霊となると宣言しているのです。
菅原道真や平将門とは別格の怨霊ということ。
ではなぜ崇徳天皇が怨霊と化してしまったのかというと
天皇家の権力争いに巻き込まれてしまったから。
崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子として生まれます。
崇徳天皇の祖父である白河天皇は崇徳天皇のことを非常に気にかけていました。
白河天皇は鳥羽天皇を無理やり退位させ崇徳天皇を天皇として即位させたのです。
天皇に即位した崇徳天皇の年齢はまだ3歳でした。
そのため父、鳥羽天皇と崇徳天皇との関係は最悪なものとなります。
しかし1129年に白河天皇が亡くなり鳥羽天皇が再び実権を握るように。
そして崇徳天皇の弟である後白河天皇を即位させます。
崇徳天皇は鳥羽天皇の謀略に嵌められて力を失うことになるのです。
そして朝廷が崇徳天皇派と後白河天皇派に分裂し保元の乱が勃発。
保元の乱は後白河天皇が勝利し崇徳天皇を香川県へと島流しします。
崇徳天皇は保元の乱で犠牲になった人のために写本を作成。
京都のお寺に納めてもらうよう後白河天皇にお願いします。
ですが「写本には呪いがかけられている可能性がある」として受け取りを拒否。
そのことに激怒した崇徳天皇は舌を噛み切り自らの血で
日本国の大魔縁となり皇を取って民とし民を皇となさん
この経を魔道に回向す
写本に書き込んだとされます。
父に裏切られあらぬ謀反で天皇として400年ぶりに島に流され実の弟にも軽蔑された崇徳天皇。
この世を呪いながら流刑の地で悲しき一生を終えます。
その後京都で大火が起きたり天皇家も相次ぐ不幸に合いました。
これらは崇徳天皇の崇りだと語られるようになります。
崇徳天皇は正直で優しい人間だったということは想像に難しくありません。
それは美しい詩にも表れています。
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
という詩は百人一首にも含まれていますからね。
心の底から民の幸せを願う天皇であり呪詛の意志はなかったと思います。
ですが運命の歯車に翻弄され続けて悲劇的にその幕を閉じました。
その人生を後世の人が悲しんだこそ崇徳天皇の怨霊信仰が生まれたのでしょう。
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今回は日本最恐の怨霊についてご紹介しました。
怨霊と聞くと条件反射的に怖いものと感じるかもしれません。
ですがその実は民のことを想う誠実な人ばかりでした。
時の権力者に翻弄され悲劇的な結末を遂げた人物。
権力者に仇なすことはことは果たして悪なのか?
非常に考えさせられますね。
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