原子爆弾ってなに?原子爆弾はどうやって作られたのか?
- 2021.08.02
- テクノロジー
こんにちは✨矢島奈月妃です。
世界で最も脅威となるものは何でしょうか?
世界には様々な兵器があります。
その中でも多くの人は原子爆弾と答えるでしょう。
日本は世界で唯一の戦争被爆国ですから。
では原子爆弾とは一体どのようなものなのか?
そんな原子爆弾はどうして作られたのか?
今回は原子爆弾についてご紹介します。
原子爆弾とは
原子爆弾とはウランやプルトニウムなどの元素の原子核が起こす核分裂反応を使用した核兵器のこと。
ウランは自然界に存在する元素の中で最も重い元素。
エネルギーの量は重さに比例します。
そのためウランからは大量のエネルギーを獲得することが可能です。
さらにウランは放射能を発する放射線物質。
そのウランやプルトニウムを使って大量を破壊することを目的とした兵器が原子爆弾です。
プルトニウムはウランを変化させて人工的に作成した元素です。
ウランを使用した原子爆弾がウラン型原子爆弾。
プルトニウムを使用した原子爆弾がプルトニウム型原子爆弾。
プルトニウムはウランに比べて安定し原子炉の副産物として得られるため量産に向いています。
さらにウラン型原子爆弾よりもプルトニウム型原子爆弾の方が威力が高いのが特徴。
そのため現在の核兵器はプルトニウムが主流となっています。
世界には13400発の原子爆弾を含む核兵器があるとされています。
ロシアとアメリカが6000発以上の核を保有しているのです。
核兵器を使うことで一瞬にして国を崩壊させてしまいます。
そのため核兵器は実用よりも抑止力的な意味となっているのです。
原子爆弾の開発の歴史
世界に対してかなりの影響力を誇る原子爆弾。
そんな原子爆弾は一体どうやって開発されることになったのか?
原子爆弾の開発の歴史を見ていきます。
ウランの発見
1789年にドイツの科学者クラプロートが歴青ウラン鉱からウランを発見します。
ウランという名称は1781年に新発見されたウラヌス(天王星)にちなんで命名されました。
さらにクラプロートはジルコニウムやセリウム、テルル、チタンも発見しています。
放射線の発見
1896年にベクレルがウランが発する放射線を発見。
ベクレルはウラン化合物に日光を当てるとX線が発生することを証明するために実験を繰り返していました。
ある日の天気はあいにくの曇り空。
ベクレルはその日の実験を取りやめウラン化合物と写真乾板を一緒に机の引き出しにしまいます。
数日後に引き出しをあけるとそこには真っ黒に感光した写真乾板があったのです。
写真乾板が感光した理由はウランの放射線。
ベクレルはウランが放射線を発することを見つけたのです。
その功績をたたえて放射能の単位はベクレルとなっています。
このベクレルの発見に興味を持ったのがキュリー夫人。
1897年から1902年の間にキュリー夫人と夫のピエールはウラン鉱石等を使って研究を行います。
夫婦は放射能まみれになりながらもポロニウムとラジウムという新しい放射性元素を発見。
1903年にキュリー夫妻とベクレルは放射能発見の業績でノーベル物理学賞を受賞します。
ですが当時は放射能の危険性は全くと言っていいほどわかってはいませんでした。
ベクレルは被曝が原因とされる心疾患によりノーベル賞受賞からわずか5年後に亡くなっています。
放射能が人体に害をもたらすことは1920年代に少しずつわかってはきます。
ですがキュリー夫人は自身の体調不良が放射能によるものだとは認めませんでした。
放射能は容赦なく彼女の体を蝕み1934年に再生不良性貧血でこの世を去ります。
キュリー夫人が遺した研究ノートは放射能まみれで今でも触れることは危険とされているのです。
原子核の発見
1911年にはラザフォードによって原子核が発見されます。
原子核とは原子の中心にある原子の質量のほとんどを持つ小さなかたまりのことです。
ラザフォードは自分の弟子や学生に原子の中には未知の中性粒子があることを予言していました。
中性子の発見
その話を聞いた弟子であるチャドウィックが1932年に中性子を発見します。
チャドウィックは中性子の発見により1935年にノーベル物理学賞を受賞。
核分裂の発見
1938年にドイツの科学者ハーンとマイトナーがウランに中性子を当てることでバリウムが生成することを発見します。
これはウランに中性子を衝突させることで核分裂したためです。
これが核分裂反応。
さらに核分裂反応が起きる時には巨大なエネルギーが発生することも発見します。
核分裂反応の話を聞いたのがハンガリーの物理学者シラード。
その話を聞いてシラードは「核分裂反応を連鎖的に行うことで巨大なエネルギーが得られる」と考えました。
時はヒトラー率いるナチスドイツが台頭していた時代。
シラードはナチスドイツに原子爆弾を開発することを恐れていました。
アインシュタインの手紙
シラードはアメリカ大統領ルーズベルトに対して原子爆弾の開発をナチスドイツより先に成功させるべきだと訴えます。
その書簡の作成をある人物に依頼することに。
その人物というのがドイツから亡命していたアインシュタイン。
アインシュタインは書簡の中で
ウランの連鎖反応がいずれ実現されること
それが新しい爆弾の開発につながること
当時のドイツが開発に着手するであろうこと
を指摘。
終戦後にアインシュタインはルーズベルトに原爆の開発を勧めた手紙への署名を後悔していると語っています。
1948年にアインシュタインはアメリカに来ていた湯川秀樹を訪ねます。
そして湯川の手を固く握って涙を流しながら
「私のせいで罪のないたくさんの日本人を原爆で傷つけることになって申し訳ない」
そう言ってアインシュタインは何度も何度も頭を下げたという。
アインシュタインについては『世界の驚くべき天才たちトップ5』の記事をご覧ください。
マンハッタン計画
当時は原爆の開発に消極的だったアメリカ政府もイギリスのMAUD報告書を受けとり1942年に原爆の開発に着手。
この原爆製造プロジェクトの名前がマンハッタン計画。
マンハッタン計画のリーダーになったのがオッペンハイマー。
さらに世界一の天才と言われるフェルミや中性子を発見したチャドウィックも参加しています。
ですがアインシュタインはマンハッタン計画には参加していません。
マンハッタン計画については『世界の危険すぎる実験』の記事をご覧ください。
トリニティ実験
1945年7月16日に人類初の核実験がアメリカで行われます。
それがトリニティ実験。
トリニティ実験はプルトニウム型原子爆弾の爆発実験でした。
実験は成功し半径30kmに渡って閃光がさく裂し爆発音は160km先まで聞こえました。
巨大な爆炎はキノコ雲となり高度12kmまで達したと言われています。
実験に居合わせた多くの科学者はただ黙りこみ「ひどいものを作ってしまった」と座り込む者もいました。
このトリニティ実験によって核の時代が幕を開けたのです。
トリニティ実験で使われた原爆と同型の爆弾「ファットマン」が長崎に投下されます。
多くの日本人に悲劇が襲うことになるのです。
日本への原資爆弾投下については『日本への原爆投下 アメリカが行った謀略』の記事をご覧ください。
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今回は原子爆弾についてご紹介しました。
原子爆弾は日本人はもちろんのこと科学者たちにとっても大きな爪痕を残しています。
原子力の発見は世界の仕組みを知る上では素晴らしい発見でした。
しかしあろうことか人類は同じ人類を滅ぼすために使ってしまいました。
なぜ私たちが歴史を学ばないといけないかというと二度と同じ悲劇や過ちを繰り返さないため。
人類が犯してしまった罪を知る必要があるのです。
誰しもが罪を犯してしまう可能性があるのですから。
今もまた人類は罪を犯そうとしています。
だからこそ歴史を学ばないといけないのです。
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